深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

「老いと踊り」で考えた幾つかのことについて

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 熊本で初めて中島那奈子さんに会った時に、研究テーマである「ダンスと老い」(エイジングという言葉遣いだったかもしれない)の話を聞いたんだけど、正直あんまりその重要性がわからなかった。なんか「年寄りのダンサーって説得力ありますよねー」とか、その程度のゆるい会話でお茶を濁したような気がする。あ、そう、イオンに行く道すがらだ。

 

 国際シンポジウム「老いとダンス」の2日目をずっと聞いて(途中何度かうとうとしたけど)、ちょっとだけその重要性がわかったような気がする。

 

 老いた身体を舞台に乗せるというのは、多分、70年代くらいのヨーロッパ人にとっては、とてもショッキングなことだったんじゃないか。ピナ・バウシュ、デボラ・ヘイ、ロバート・パクストンを分析したラムゼイ・バートの講演によれば、彼らのダンスは資本主義批判としても機能していた。60年代のジャドソンダンスが「革命的な美の転換」を果たし、その可能性をピナをはじめとするダンサー、コレオグラファーたちが切り開いた。彼らは日常的な動きを多用することによって、資本主義がもたらす標準化、大量消費モデル、消費者という役割に対する対抗文化となり得た云々。超絶技巧としてではなく、身体感覚を研ぎ澄ますという方向にダンスをつくっていくことになった。

 

 それの延長線上にポストドラマ演劇と呼ばれるジャンルも立脚しているし(尼ケ崎氏の言う「鑑賞から目撃への転換」なんかはまさにそう!)もあるし、僕が上演するような作品も、その大きな流れに乗っかっているものだ。

 

 中島さんは詳細に説明しなかったけど、対談中に1度か2度「近代」という言葉を使った。ピナ・バウシュ、デボラ・ヘイ、ロパート・パトリックたちの足跡は、資本主義批判である以上に、多分(ヨーロッパ)近代批判だったんじゃないか。近代的な美は、例えば、足を上げること、高く跳躍することなどの技巧を求める。なんでかというと、近代において大切なのは、身体=自然を「超克する」ということだからだ。精緻にコントロールされた身体に対して、近代は美を見出した。

 

 でも、「そうじゃないんじゃないの?」というカウンターとして、彼らのダンスは機能したわけだ。それは、演劇や他の芸術においても60年代に転換があったように、ダンスにとっての転換がそれだった。

 

 尼ケ崎氏の講演の中で「本当の身体」という言葉が使われていた。「本当」を突き詰めた結果、「老人」という、近代の外部にいた老人という存在が注目されるようになった。ピナ・バウシュらが本当の身体を求めて日常的な身振りに移行していったように、「本当」を求める欲望が、「老人」を発見した。たしかに、40歳で引退するバレエ団の常識を標準尺度に持ってたら、80歳の大野一雄が女装して踊っていることは、衝撃以外の何物でもないだろう。なるほど、老人はすごい。

 

 でも、尼ケ崎氏の説明にあったと思うけど、日本では別に老人は「悪い」ものではないし、老人のダンサーも珍しくない。西洋近代が老人を見捨てていただけで、それは西欧近代という極々ローカルで特殊な価値基準にすぎない。それに、当然だけど、60年代以前(とざっくりくくりますが)のダンサーたちも「本当の」身体を求めて跳躍していたんだろうし、「本当の」というニュアンスはいつの時代も異なる(なお、別に尼ケ崎氏が「本当」という言葉を使っていた時も、別に全肯定だったわけじゃなかったはず)

 

 で、翌々日に上星川で開催されたライムント・ホーゲのワークショップに参加したんだけど、僕にはどうも、彼の身体が「本当の」身体だとは思えなかった。面白かったのが、見本として見せたムービングが、カンパニーメンバーよりも、(ワークショップ参加者よりも)「雑」だったのだ。歩き方にしても所作にしても。これは、もうちょっと気を使えばいいのに、という意味じゃなくて、その雑さを演出するために周囲に美しさを配置するという演出技法のように思えた。ビデオで見た限りだけど、ライムントの作品には、ライムントの周囲に美しく動く人々が配置されている。美しさに取り巻かれている「雑」な身体という配置が「オルタナティブ」としての近代批判になったわけだけど、僕は、もうその配置自体にどこか胡散臭さというか、違和感を感じてしまう。だって、僕らの世界はそもそも美に取り巻かれているとは思えない。

 

 「音楽を身体に通す」「身体を開く」「内部を見る」「パフォーマンスとしてやらない」「シンプルに」とか、ライムントによって語られるいちいちは正鵠を付いていると思うし、僕も稽古場でよく言ったりしていることなんだけど、でも微妙にその指し示すところが違うんだろうなあと感じていた。僕だったら(と考えるのは烏滸がましいかもしれないけど)、もっと、身体の内部が躍動しているように錯覚できたり、物質としてそこに置かれることができることの方が「本当の」身体に近いように思うし、それを「差し出すことができる」のが優れたパフォーマンスのような気がする。でも、まあ、その違いは別に悪いことではないと思う。