深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

「ふたりのビッグ対談」上演後記

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5月17日に、シャトー小金井2Fで音楽家・カンノケントと上演した「ふたりのビッグ対談」について書く。なぜならば、誰も書いてくれないからだ。

 

『あいだに在る』という企画の話を貰ったのは、昨年末だったか。他のジャンルとのコラボレーションという縛りしかなかくて、はじめは受けようかどうしようかと思案していたんだけど、手塚夏子の『私的解剖実験6』に一緒に出演したケントさんと一緒に何かやりたいなと思い、話を持っていく。当初は、「神輿を担ぐ」とか「餅をつく」とか、適当なことを言っていたような気がする(この時点から、ケント氏にタブラを演奏してもらうというのは、そもそもなかったんだろう)。なんでもいいからタイトルを決めてということで、「ふたりのビッグショーでいいんじゃない?」と提案したら、ケント氏から「ふたりのビッグ対談はどうだろう?」という返信。なぜ、対談になったのかは、今でもよくわかっていない。

 

僕はそもそもパフォーマーではないので何もできることがない。なので、所謂パフォーマンスの埒外のことを考えなきゃならなかった。それは、つまり、行為主体にならないということ。それでケントさんのタブラはとても魅力的なんだけど、でも、多分この人の魅力は、タブラの演奏能力にあるのではなく、もっと別のところにあるのではないか(そして、彼自身、そちらの方に行きたがっている)と、なんとなく思ったのが、ケントさんと一緒にやろうと思った動機だ。

 

■稽古はほとんど無駄話

 

4月くらいに、まずメルヴィルの「バートルビー」を読むところから作品作りは始まる。「しないほうがいいと思います」というバートルビーの姿勢が、行為主体にならないという今作の姿勢に重なったため、ケントさんから推薦。この他、アガンベンの『バートルビー』なんかも読んだり。

 

それを土台にして稽古をはじめたのは5月。とはいえ、僕も直前までかもめマシーンの作品を作っていて、出がらしみたいな状態だったから、何をしようかねー、というところからスタート。本当に、とりとめないことを喋っていた。でも、稽古と称した話は、ほぼ毎日4時間やるんだから偉いと思う。

 

ケントさんと話していて「折衝」という言葉が多く出てくることに気づく。それは、「過去の自分と現在の自分の折衝」といったような言葉遣いであったりする。今振り返って考えると、もしかしたら、この稽古の大部分は「折衝」という言葉遣いの中に含まれる微妙なニュアンスについて共有することだったかもしれない。ケントさんの言う「折衝=駆け引き」という言葉には、彼独自の意味が含まれている。それは、彼独自の体から、生み出された言葉のように感じる。その言葉遣いを理解することが、多分、今作をつくる過程だったんじゃないか。例えば、左手について(ケントさんには左手がない)、彼は、最近は「ない」のではなく「伸びなかった」のではないかと考えるようにしていると言ってて、すごくおもしろいなと感じた(「身長が低い人は伸びなかっただけでしょ?」っていうこと)。それは、自分と左手との「折衝」の中から生まれた言葉である。あるいは、過去の経験と、現在の身体との折衝から生まれたものかもしれない。

 

ケントさんはケントさんで、僕は僕でなかなかに自意識過剰な2人なので、自意識とあるいは他者と記憶と自己イメージと……etc折衝することについては、なかなかに困難がつきまとうのだ。「物を愛でてみる」「詩を味わってみる」「倍音を感じる」「家が燃えるところをイメージしていく」「畳を舐める」「ステージで歌う」「ナイトスクープを見る」とか、興味の赴くままにやっていたことは、どこかしら折衝ということばに関わっていた。

 

■ダンス作品になった

 

じゃあ、いったい何をするんだい? ということで、決まったのはようやく本番の前日。

 

「ケントさんがオリジナルの曲を歌う。萩原がそれを聞く」というシーンをメインとしながら、「輪郭を取る」「自己イメージの自己紹介をする」「物を愛でる」「釣り糸を引っ張り合う」という構成になる。

 

こういうもの(ゆるっとしたパフォーマンス)をつくるさいは、構成に細心の注意を払わなきゃいけない。いや、正確には、構成されたものについての細心の注意か。つまり、どうして、これの次にこれが来るのか、なぜこれをするのかという時間軸に沿ったドラマ・ストーリーを、パフォーマー自身の身体に落とさなきゃならない。でないと、本当にすぐ、時間的必然性は逃げていっちゃう。

 

輪郭を取り、現在の自己の客観的な事実を規定する。その次に自己紹介をすることで、客観と自己イメージとのズレを強制的に見つめる。それから、物を愛でることで、その客観からずれた自己イメージに客体をぶつける。ずれた自己イメージ同士を結びつけ合う。それで、自己イメージを飛び越えるために歌う/相手のイメージを受け入れるために聞く。

 

といった具合。僕は、ダンスとは、身体を動かすことではなくて、身体に対して作用することだと考えていて、逆に言えば、それさえあれば形はなんでもいいと思っている。だから、僕らがやったのは、ダンス作品なんだ。自己像と客観の折衝、ケントさんと僕との折衝、それと自己イメージと自分(この場合の自分を定義するのはすごく難しいけど……)の折衝、それを経ることだんだんとパフォーマーの体が変わってくる。そして、歌を歌えるようになるというドラマだった。

 

■収穫したものが多かった

 

僕としては、演出をしないという実験をして(パフォーマンスをするので、そもそもできないんだけど)、それが意外とうまくいったので、収穫がすごく多かった。演出をしないとは、シーンの効果であったり、その効果の価値を考えたり、それにもとづいて構成をしたりしないということ。自分の手癖の中に、「おもしろさ」のためではなく、「つまらなくならないため」「あきないため」に行われている操作が多々あることに気づくなど。枠組みは、意外と広い。

 

ケントさんとは、またいつか何かをするでしょう。