黒瀬陽平「情報社会の情念」抜き書き
情報社会の情念―クリエイティブの条件を問う (NHKブックス No.1211)
- 作者: 黒瀬陽平
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2013/12/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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P12
震災は、被災者だけでなく、筆者のような直接の被災者ではない人間にも「とりかえしのつかないこと」をもたらした。復興とは、このような「とりかえしのつかなさ」と向き合い、乗り越えてゆく行為なのではないか。
P14
椹木
そもそも「現代美術」が「現代美術」たりえるために否定され、乗り越えられるべき大文字の「美術」自体が(日本には)存在しなかったからだ。……仮初めの「美術」の上で、戦後日本の「現代美術」は語られてしまっているのだ。すなわち戦後日本は、西洋においては極めて構築的な歴史を持つ「美術」という概念、制度が存在しないまま「前衛」の身振りとしての『現代芸術』が蓄積もなく繰り返される「悪い場所」である。であるならば、まずは戦後日本の現代美術という仮初めの枠組みをリセットすること、それが重要である……と。
P15
3.11は、戦後日本の表層を押し流し、私たちが無意識下へおいやっていたあらゆるやっかいな問題を同時に召喚した。すなわち、「悪い場所」を露呈させたのであった。
P19
わたしたちに必要なのは、「悪い場所」の産物であるオタクカルチャーやネットカルチャーに現れた「平面性」を指さすだけの批評ではなく、むき出しになった「悪い場所」のもつ平面性そのものを捉える言葉である。
P32
オンラインで数千万人のユーザーを快適にプレイさせるためには、ゲームのインターフェイスの背後にあるデータベース設計やデータ分析といった「運営」の領域が最も重要なのである
P35
ソーシャルゲームにおいて、最もクリエイティビティが注ぎ込まれているのは、「ユーザにゲームを始めてもらう」ための方法ではなく、「ユーザにゲームを辞めさせない」ためのシステムなのである
P38
21世紀に入ってから盛んにおこなれてきたクリエイティビティについての議論は、従来の「作者」によって与えられるクリエイティビティよりも「環境」によって与えられるクリエイティビティをこそ問題にしてきた
P38
フロリダであれば「都市」、レッシングであれば「インターネット」という「環境」に宿るクリエイティビティをいかにして高めていくのか、その方法こそが重要視されているのである
P39
エンジニアたちは、その人工的自然のなかに、まるで小さな都市を創るかのようにプラットフォームを設計し、コンテンツが生成する様を眺めるのである
P39
コンテンツの性質はそれ自身のプラットフォームによって決定されるという絶対的な従属関係である
P48
つまり、もともとは「神の御業」であった創造は、「アート」と深い共犯関係を結ぶことによって、わたしたち人間の行為を意味するところとなったのである。……人は、アートと共謀することで、創造の主体という座を獲得したのである
P49
世界は設計可能である。インターネットという人工的自然に介入することで、誰もが設計者となりうる。こうした認識から始まるクリエイティビティについての議論は、必然的に、「良き設計とはなにか」「良き設計者とは誰か」を問うことになる。情報社会のクリエイティビティに関わることができるのは、コンテンツの作者であはなく、プラットフォームの設計者なのだ
P53
北田
「コミュニケーションの自己目的化」とでもいうべき欲望に注目した……
コミュニケーションの内容ではなく、コミュニケーションそのもの、つまり「他人とつながっている」という事態を欲望しているのである。「つながり」を求め、コミュニケーションの連鎖を止めないためにひたすらネタが投下されるのだ。
P61
データマイニングは「同じもの」に飽きてしまい「新しいもの」を求めるユーザの欲望については教えてくれない
P65
九鬼によれば他者のいないところに偶然はない。他者とは、「一の系列」に対する「他の系列」のことであり、「一者としての必然性」の外部に存在するものである。そして、それらが「邂逅」する、つまり思いがけずで会う、巡りあうことが偶然なのである
P68
「独立なる二元の邂逅」、異なる2つのマトリクスの交差、つまり、「他者との偶然の出会い」は、クリエイティビティの定義そのものである
P79
それは、コミュニケーション消費空間におけるフィクションの役割を再設定する試みであったと言ってもよいだろう。らきすたというフィクションは、私たちのコミュニケーション消費の中から生まれ、コミュニケーション消費空間を写す鏡であると同時に、コミュニケーション消費に飲み込まれないような位置にも存在しているのだ
P89
「運営の思想」と「制作の思想」が並び立ちつつ交わるのであれば、「運営の思想」がその根底で依拠しているプラットフォームの力は、何らかの形で「制作の思想」にも関係してくるはずだからである
そのようなプラットフォームの力は「創発」という言葉で呼ばれている
P92
都市が、事前の計画や意図なしで、その混沌の中から自ら一つの秩序を生み出す。つまり、都市住民の個別でバラバラな行動や意思が相互作用し、ボトムアップ式に大きな秩序を自己生成する。これこそが、エンゲルスが目撃した都市の複雑性であり、都市の生み出す創発だったのである
P93
豊かな創発性を持つ都市について考えることと、情報社会のプラットフォーム設計はパラレルな関係を続けている
P98
ぼくは、固まることを言ってるんじゃなくて、バラバラな生活者が勝手にやった結果、時間が立ち、空間的に広がると、妙に不思議な、インテリたちの判断と違った判断をするってことだ。それが、じつにまた本当なんだな
P99
ばらばらな「ピープル」たちの不思議な「判断」もまた特定の個人の意志でもなければ、単にそれらを寄せ集めた「大衆の創意」でもない。バラバラな「ピープル」の行動が「時間が立ち、空間的に広がる」という、岡本独特の言い回しは、その微妙な違いを表現するために使われたのではないだろうか
P100
日本にはほんとうの意味での「レジスタンス」を伴う「前衛」は存在せず、その代わりに「ピープルのもやもやしている日常の感情」が、モードのパターンを借りて出てきている。この岡本の言葉には、日本における「前衛」の議論を、大衆の創発性や無意識についての議論へ読み替えようという意図があ会ったのではないだろうか。
P103
寺山
ぼくらは集団でものを作る場合には、共同作業でやるというよりはむしろ相互作業でやるべきであって、同時的に生成することではなく時差をもって相互的につくるほうがより自分に適している方法なのだと述べたわけです
P104
てらやまにとっての集団創造と、ニコニコ動画の擬似同期性の比較によって明らかになるのは、寺山が演劇を創発を意図的に引き起こすためのプラットフォームとして捉えていたということだ。「相互作業」「相互作用」という言葉を得た寺山は「沖縄」「縄文」という日本の無意識へと降りていった岡本とは明確に異なる道を歩むこととなる。
P109
寺山は政治だけを主人にもった演劇を何より嫌っていた。寺山にとって重要だったのは、現実と虚構が混在する状況を作り出すことであり、それ自体が目的だったのである
P111
寺山
劇は出会いである。出会いを必然として捉えようとするのが政治学であるとするならば、われわれはその対極において、出会いを偶然的なるものと認識する
……出会いの偶然性を組織しようとしたのが「市街劇」であったとすれば、寺山にとっての演劇の定義は、明らかに紫外劇の実践から導き出されたものである
P114
「紫外劇」はまさに偶然の出会いを意図的に発生させるところからはじまっている。しがいげきにおける偶然の出会いは、プラットフォームだけによってbもたらされるものではない。都市という現実のプラットフォームに、演劇という虚構のコンテンツを出会わせること、そして両者の混在の中で、想像力によってさらなる出会いを増殖させてゆくプロセスこそが重要なのだ
P119
現実と虚構が、ただそこにあるだけでは何も怒らない。しかし、現実と虚構が偶然に出会うこと、そしてそれが増殖してゆくことによって、虚構の飛行機は効力を得るのである
P135
市街劇が描くもう一つの現実は、都市の「外部」であり、「他者」との偶然の出会いの可能性を示すものである。それは「制作の思想」がなしうる環境への還元であり、人工的ケアの形であるということができるだろう。それはまさに「運営の思想」と「制作の思想」の交差である。そして、そのようなことが可能だったのは、寺山が自分の意志sで、天井桟敷の「2つの歴史」を歩み続けたからだということを忘れてはならない