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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

佐々木敦「シチュエーションズ『以後』をめぐって」抜き書き

かもめマシーン 本を読まないとバカになる メモ

「震災以前/以後」の舞台、小説、写真、映画などについて書かれた本。かもめマシーンのことも載っていますが、そんなことはどうでもよくなるくらいいい本です。

 

シチュエーションズ 「以後」をめぐって
 

 

 

P9

保坂和志

私は作品という形で残りたいと思っているのでなく、考えたり感じたり記憶したりするプロセスに小説を書くことで関わりたいと思っているのだ

 

P14

人間の遺体が撮れなかったので代わりに豚の映像を置いたのだと言えば、不謹慎と思われても仕方がないが、それでもおそらく間違いなく、確実に、しかも大量に存在していた筈であるのに、イメージとしては徹底して不在の「人間の死」を代補するものとして、無造作に土の上に横たわる「豚の死」は、編集段階で残されたのだと思われる。

 

P16

森達也

つまり自分は非当事者なのだ。

ところが気分的には当事者になりかけている。最も悪いパターンだ。ならば現地に行くべきだと考えた。もちろん、現地に行ったとしても、当事者になれるはずはない。でも非当事者には非当事者の役割がある。自分にも自分の役割がある。

 

P24

「野蛮な詩」が必要としれていると言う指摘はあまりにも正しい。……だが、その「野蛮」さとは、単純な意味で「国民感情」と逆立すれば、そう見えればいいわけではないだろう。「短慮」や「後ろめたさ」や「みっともなさ」だけではないのはもちろんのことだが、「俺だって考えてる」に陥らず、「失語」をも回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。

 

P35

ただカメラを回して質問を口にするだけでは、或いはカメラの前で自由に会話してくださいと求めただけでは、どうしても露にできない事がある。それは「切り返し」のようなあからさまな作為の介入、フィクション性の導入によってこそ、画面に現れてくるのである。

 

P36

『なみのおと』と『相馬看花』、日本の映画に共通しているのは、ドキュメントするためにこそフィクションが必要なのだ、という意識もしくは無意識である。「映画」に記録されているのは常にすでにかつて「現在」であった「過去」であり、そうでしかない。だが、それが見られるのは常に「現在」だえる。だから、「過去」を「現在」へと呼び戻すためには、その回帰に真の意味での切実さを与えるためには、何らかの仕掛けがいるのだ。

 

P39

百年後に向けて何かをすることと、「百年後に向けて何かをするべきだ」と語ることの間に横たわる断層が、どうしても気になってしまうからである。そこには欺瞞の萌芽がある。

 

P41

川上未映子

でも、想像力を駆使して書いたことは、結局、解決にはならないんじゃないですか。フィクションが寄り添うものだったり、耐え難い現実の緩衝材だったり、そういう役割はできても、そういう存在をつくることと、百年後の未来を想定していま現実的にどう振る舞うかを考えることは似ていて違うことだと思うんです。

 

P56

「以後」であることに、はっきりと自覚的な表現よりも、ほとんどそのようには見えなかったり、真面目にやっているとは思えなかったり、表現者自身でさえ、その意味をよくわかっていなかったりするような試みや営みの中にこそ、ほかならぬ「以後」の徴を……読み取っていくことが、今や必要なのではないか、

……

避けるも酒内も、逃げるも逃げないも望むと望まざるにかかわらず、われわれはあまねく「以後」を生きているのである……だとすれば、殊更にそのように標榜することはなくても、しかし実のところは「以後」を全身で受け止めてしまっている、そう思えるような表現を、繊細かつ大胆に、時には無理にでも見出してゆく作業の方を、私はやりたい。それは「以後」の無意識を探ることでもあるだろう。

 

P57

宮沢章夫

そこに立つ人の内面より、その表層的なシルエットがどんな劇言語を発するか、それによって空間がどう変化するかを知りたいし、それが、僕が舞台上で、何かを表現することなんだと思います

 

 

P58

「表層」の向こう側に鎮座する「意味」から、その表現、その芸術が生まれてきたのかというと、そうとは限らない。まず、どこからかどうしてか、ふと。ある「表層」が出現し、しかしいかなる理由でそれが出現したのか、それが何なのか、誰にも理解できず、それがどのような「意味」を持っているのか、次第にわかってくるのは、誰か他者へと送り届けられてからということだってあるのだ。

 

P59

パブリックな視点からしたら、とるに足らないような個人的な動機であったとしても、それが切実なものとして迫ってくれば、そこには必然性が生じる。そのような必然性こそが試されているのだ、ということを言いたかったのである。それは細やかなものであるかもしれないが、しかし当人にとっては、けっして譲ることのできないものでもある。

 

P95

 

こことは完全に断絶した場所で、こうしてDVDの映像に刻まれている以上は、すでに遥かに過ぎ去った、けっして巻き戻すことのできないある時において生じていた出来事である。だが、それは同時に、疑いもなく、「わたし」が今いるここ、ここにある今と、つながっている。それは別の世界の出来事ではないのだから。それは虚構ではないのだから。

 時間と空間の断絶と連続、その両義性、言い換えればそれは「距離」のパラドックスである

 

P97

ここには、複数の、極めて複雑な「距離」のパラドックスが、畳み込まれるようにして記されている……存在しなかったかもしれない私」は、しかし現に存在している。今ここに、存在してしまっている。

 

P99

柴崎友香

爆弾が落ちてくることがわかっているのに、そのときにはすでに爆弾は投下されていて、誰も止めることができない。時間はあるのに取り消すことはできない。少しでも遠くに逃げるか、なんとか物陰に隠れて、すでに決められていた破壊を見ることしかできない。

 

P100

それは私であったかもしれないという想像は、しかしそれが私ではなかったのだという事実と、裏腹になっている。……そのような認識がもたらす紛れもない自責の念とは、結局のところは、安心の別名ではないのか。

 

P104

柴崎友香

日常という言葉がさす何かがあるとしたら、あのときも、現在も、遠い場所でも、ここでも同じ早さの時間で動き続けている街の中に、ほんのわずかの間だけ、触れたように感じられる、だがその次の瞬間には、もうそれがどんな感じだったか伝えられなくなってしまうような、そういう感じ方のことだと思い始めている。

 

P108

「過去」の存在と「時間」の不可逆性。越えられない「距離」と、それでも「距離」を越えようとすること。ここには紛れも無く「わたしがいなかった街で」のエッセンスがある

 

P109

岡田利規

僕にやれることがあるとしたら、僕らがどうやって現代を生きてて、そしてそこにどうやって歴史に対する想像力を挿入させていくか、その試行錯誤のプロセスを晒すこと、それにはかろうじて、ある種のドキュメントとしての意味があるかも

 

P111

岡田利規

想像力は、現実とたとえ無関係でも構わない。現実と拮抗する何かをつくるということ。現実のオルタナティブをつくるということ。僕はそんなふうに書いたことがこれまでない。少なくともそのように書こうという意志のありかたが僕にはなかった。けれども、今の僕の興味が有るのは、そういうことだ。

 

P130

(一般)

「3月11日」について、個々先代では、被災した東北では、もはやひとつのイメージができあがってしまっていると思うんです。わたしたちの誰もが、震災についてのイメージを共有している。そして何を見ても、ついついそのイメージを探してしまって、それを確認しようとしてしまう。

 

P144

空間的な距離は他人事という感覚をどうしたって強めるし、時間的な距離は忘却のツールとしても作用する。この二重の距離を埋めるためのひとつの道具として、たとえば映画というものはある。距離はどこまでも開いていくだろうが、それでもそれを図ることができるということには、なにがしかの意味があるはずだ。

 

P151

園子温

「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数理に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中にうもれていくものは数え上げることができないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。ひとつでも正確な「ひとつ」を数えてみろ。

 

P157

そこでは「「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」にさいせいできるか」が武骨なまでに真正直に問われている。そしてそれは、けっして完全なる「非当事者」ではありえないはずなのに、しかし「当事者」を自ら標榜することだけはけっして許されはしないものが、以下にして「当事者」の言葉を通訳できるか、という取り組みでもあるのだ。

 

P163

高山明

その不協和音の中にこそ、自分が福島にいないこと、今東京にいるということ、その距離がはっきり見えてくるんじゃないか。演劇を作るときにも見るときにも、感情移入はつきものですが、でも今は、それよりも、僕らの前に現実にある距離を測り、感じることのほうが重要なんじゃないのかな

 

P167

三浦基

政治性とは関係性と言ってもよい。激は関係性によって成り立つ……イェリネク作品での守護に「わたしたち」が頻出するのは、政治性を問うた結果である。つまり、イェリネクが書くのは、物語ではなく、私たちに怒った「出来事」についてなのだ。

 

P176

三浦基

リアリティという言葉は、いつの間にかアクチュアリティにすり替わってしまった。……誰だかわからない立場で、アクチュアリティを武器に個をいち早く捨てる術を持った。

 

P177

つまり「アクチュアリティ」と「わたしたち」都の相関が、ことによるとじたいをより不文明に、悪しき曖昧さに追いやっているということもあるのではないだろうか。

 

P197

「まず写真の中の分からない物をわからないままにしておきたいのです。発行させるように寝かせておきたいんです」と彼女は言う。わからなさとの格闘は続いている。それは志賀理江子という個体と体の内側にも外側にも、内外をめぐる回路にもある。

 

P205

ひとは何らかの選択を迫られた時、それもA or not Aというような決定的な二者択一を強いられた場合、自らが選んだ選択肢の正しさを、まず誰よりも先に自分に対して強弁しようとするし、選ばなかった方の選ばれなくてもよさを妥当なレベルよりついつい強調してしまいがちである。そのようなケースにおいて、フィクションという装置ができるのは、両論併記、それも単なる「どちらも正しい」とは異なるそれぞれの選択の不可能性を踏まえて、双方の決断の不可避性を共に示してみせることだと思う。

 

P211

ここにはなぜここから逃げたいのか、なぜ個々にとどまっているのか、というおそらく誰もが「あの日以後」に意識的無意識的に問うたことがあるに違いない、あのパラドキシカルな問いへの、答えとまでは言わないが、ひとつの切実な至便が存在していると思う。

 

P221

ここでは想像すること、書くことへの強い動機と強い疑いとが同時に存在し、はげしくせめぎあっている。「震災小説」を「以後の小説」を、ただタイミングよく小器用に書いてみせるのとはわけが違うのだ。

 

 

P222

いとうせいこう

小説が作れる現実というのは死者の声を過去からも未来からも効いて、その時間が渾然一体となって同じ平面に出ることなんだと思うんです。

 

P248

高山明

ですから、アクチュアリティという言葉は、僕の中では「距離」と言う言葉と結びつきます。……「いま」という時間に中断や亀裂が入ることをアクチュアルと呼びたいし、政治的と呼びたいなと思っています。

 

P250

僕はある種の「儀式」を求めている。形式主義社なんだと思います。。……「福島という悲惨な事故があった以上、われわれは基本的には原子力を無くす方向でいきます」という、きわめて抽象的なメッセージを掲げて、それを国是として行くことが大切なんです

 

P260

高橋源一郎

きちんと書けるということは、文章のことしか見ていないということでもあるのではないでしょうか。この世界についてもっと知りたい、それを書きたいと思うと、言葉がおかしくなるはずなんです。

 

P276

そこで何かが決定的に変わったのではなく、それでもかわらなかったということが、周縁がついにやってきたのではなく、それでも終わらなかったことが、言葉が失われたのではなく、それでも言葉が今なお延命していることが悲劇なのだ。

 

P284

私たちは誰もがみんな、それぞれの位置と座標において、望むと望まざるとに関わらず、すでにコミットしている/させられているのであって、まずはその事実に気づくこと、それを意識すること、そしてそれから自らと出来事の間に横たわる「距離」を、できるかぎり正確に図ろうとすること、そうしてやっと何事化が始まるのではないかと思う。

 

P285

だがしかし、それ(反語)は、本当はどこから聞こえているのか、誰が言っているのか。その声とは一体何なのか。このことを考え無くてはならない。私はそう思う。だから、私は、この本を書いた。