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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

観客はバカなのか?

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観客はバカであり、何も知らない存在だ。

 

だから、劇作家は、演出家は、俳優は、バカな観客に対して、情報を与えたり、その行為の意味を伝える必要がある……まさか、そんなことを大っぴらに言うわけにはいかないけど。

 

煽っても仕方ないからちゃんと書こう。

 

劇場には、必ず観客席が存在する。観客席に観客は座り、1時間とか2時間とかの時間を舞台を見ながら過ごす。基本的に、上演中、観客はそこから出ることはないとされている。

 

観客は、これから舞台で起こることを知らされていない。パフォーマーは1時間30分後に主役が死ぬことを知っている。観客は知らない。情報は非対称なのだ。だから、劇作家は丁寧に情報の出しかたに気をつける。ここはどういう場所なのか? 登場人物たちの関係性はどういうものなのか? 過去にはどんな経験をしてきたのだろうか? その情報の出し方には、慎重に慎重を期して、観客をラストシーンに導く。

 

それは、いわば添乗員みたいなものだ。

 

観客が心地よく過ごせるように、そしてその経験が豊かになるように、作者(パフォーマーも含む)は最良のルートを選択する。それで、その経験が価値のあるものだったら「見てよかったね」となる。価値がないとなれば、寝たりする。ここで想定している観客は、自分の足で動いたり、こっち行きたいと思って、行動をしてしまうような存在じゃない。

 

でも、それって観客をバカにし過ぎじゃないか?

 

ツアー参加客だって別のところを見たいなと思ったり、おなか減ったからご飯に行きたいなと思ったり、いろいろとウロウロする。行動のプランだって自分で決めたいと思ったりもする。その頭のなかには、グルグルと、思考は渦巻いていたりする。でも、観客席に座っているから、何も行動をしない。

 

例えば「水戸」を舞台に設定した作品を見るとする。その土地に関係ない他の多くの観客にとっては数ある街のひとつとして認識されるだろう。けれども、僕にとってはそこで育った場所なので、そこには(愛憎はあるけど)特殊な意味が含まれ、その言葉に対する質感も、多分関係のない人とは全然異なっている。観客は、常に考えている。というか、考えてしまう。

 

西洋医学は、人体をある種の「機械」として捉える。「薬のこの成分が身体のこの部分に作用するから、痛みを抑える効果を持つ」という考え方は、私の身体と、あなたの身体とを分け隔てることはない。僕に効いてあなたに効かない薬は、新薬として認められることはない。つまり、この考え方において身体は交換可能性を持つ。観客席に座るのは、私である必然はなくて、他の誰かであっても構わない。今日、自分が座った観客席に、明日別の誰かが座る。その時、私と他の誰かは交換可能性を持つ。

 

「芸術」というものは、「普遍的」でなければならないという考えがある。それは「誰にでも伝わるもの」でなければならない。一部の観客しかわからないものであれば、他の観客は不満を持つ。同じ金を支払っているのに、どうしてあっち側だけが特をするんだ? 同じものを平等に分け与えるべきじゃないか? まあ、そりゃそうだ。

 

いや、別に差別をしたいわけじゃない。

 

同じものを見ても、人によって感じ方は異なる。観客にはそれぞれ受け取れるものと受け取れないものとがある。そもそも、観客なんていう人間は存在しなくて、例えば萩原雄太という人間は、それなりに人生を歩んできて、おそらくそれなりに今後も人生を歩んでいく。その中でたまたまそこに座っている。別の人もまた然りだ。だから、別に与えられるためにいる存在ではないし、導かれるためにいる存在じゃない。観客はバカじゃない。

 

チケットを買うということは、白紙委任状を渡していることを意味しない。観客は、独立したひとりひとりの人間である。