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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

民俗芸能調査クラブ報告書用原稿

民俗芸能

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 バリ島では、ケチャガムラン、バリ舞踊、ワヤンなどの世界的に有名な芸能に触れることができた。しかし、体験として深く刻まれているのは、その一つ一つのコンテンツではなく「伝統」に対する、バリ人の手触りのようなものだった。

 信仰心のあついバリ人たちは、毎日、神に対して供物を捧げ、神のために芸能を行う。それについて語るときの彼らの口ぶりは、僕らが「伝統」に触れる際にしてしまうような、よそよそしい姿勢ではない。彼らの身体感覚の中には、「伝統」が内在化されている。

 例えば、それを感じたのが、キンタマーニ高原近くの村で見たワヤンだ。火葬が行われる前夜、神話であるマハーバーラタをもとにした影絵芝居を、文字通り老若男女が楽しんでいた。それを見ていた時、僕は「これが少なくともあと数世代は持続されていくのだろうな」という感覚を得た。すると、そこで影絵芝居を楽しんでいる人たちが、ほとんど幽霊のように見えてきたのだ。

 そこには、おそらく3世代か4世代の人間しかいない。けれども、そこには確かにその前の世代の人々や後の世代の人々が「いた」と感じられた。錯覚といえば錯覚だが、これはとても重要な錯覚だ。

 なぜ、このような感覚が生まれたのだろうか?

 芸術は、それ自体として存立することができる。だから、演劇やダンスは劇場という密室で行われるし、絵画は美術館という閉ざされた環境に安置される。けれども、芸能はそうではない。それが開催される周囲の環境や、それに集う人、それに対する願いなしでは、芸能は、その働きをすることはできないのだ。「芸能はおもしろくない」というイメージは強いし、確かに僕もそれには同意する。けれども、それは芸能をそれ自体のひとつのコンテンツ(舞踊、演劇など)として見ようとするからだ。「何を媒介しているか」を加味してこそ、初めて芸能の芸能たる効力が発揮される。

 言い換えるならば、芸能はある種の「公共圏」のようなものを生み出しているのではないか。その公共圏の広がりが、村をつくり、人々の紐帯となりうるのではないだろうか。そして、その公共圏という枠組みには、「僕とあなた」という時間軸を同一にする空間的な広がりだけではなく、「僕と祖先」「僕と子孫」のような時間的な広がりが含まれる。だから、僕はワヤンを見ながら、その大きな時間の流れに対してアクセスしえたのではないだろうか。

 そして、この時間的な広がりは、現在の社会に、あるいは現在のアートにおいて、決定的に欠けているものだろう。