深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

なぜ、人は「繰り返し」弔うのか?

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なんか、儀式とか芸能とか言っていると、「ああ、萩原くんはスピリチュアルな人なんだね」となりそうだけど、残念ながらそっちには全く興味がない。オカルトとかエセ科学には、わりと白い目を向ける方だし、EM菌が放射能汚染に効く! とか水に毎日ありがとうと言えば素敵な結晶が! とかはごにょごにょごにょ。

 

ただし、かもめマシーンがいっこうに売れる気配がないのは、イルミナティの陰謀ですよ。これは確信しています!!!!!!!!!

 

で、僕が民俗芸能に興味があるのはどういうことかといえば、例えば、どんな最新のITベンチャー企業だろうと、絶対に「忌引」が制定されているのはなぜかということだ。どんなに現代社会が推進されていっても、「死」や「向こう側」に対する畏敬の念が(薄まりはしても)消えることはない。だから、別に懐古趣味でこういうことを言ったりやったりしてるわけじゃない。

 

NHK鹿児島が製作したドキュメンタリ「とうとがなし ばあちゃん」を(違法アップロードサイトで)見た。

 

与論島には、洗骨という儀式がある。

 

明治以前、与論島では風葬が行われていたが、明治期の近代化政策によって風葬が禁止され、土葬にするように支持を受ける。しかし、「土葬では苦しいだろう」という死者に対する配慮から、一度土葬をし、遺体を白骨化させる。それを取り出して骨壷に収め、本葬を行う。ただし、この洗骨自体は、隋の時代から行われており、また、世界中にこの風習があることから、一概に「近代化政策を逃れるための抜け道としての埋葬方法」というわけではないだろう。また、近年では与論島でも火葬が普及しているが、いまだに火葬で焼かれるのはつらいという考えを持つ人がいる。

 

では、この儀式が意味することはなんだろうか?

 

古神道では、死んだ霊を「死霊」と「祖霊」とに分けている。「死靈」とは、死んだ者の魂であり、人格を持つ者。一方の「祖霊」とは、例えば「祖先」というように、人格を持たない者。つまり、死んでなお、その霊は変化していくと考えている。

 

与論島の洗骨では、肉が残っているうちには洗骨はできない決まりとなっている。肉が朽ち果てて初めて、仙骨し、墓に入れることができる。つまり、死靈から祖霊に変わっていなければ、墓に入れない=本葬はできないというわけ。

 

与論島に限らずとも、日本全国で49日、新盆、3回忌、7回忌、13回忌など、死者は繰り返し弔われる。とはいっても、もう7回忌とか13回忌になると、死者のことなんか放っておいて、半ば(たいしておもしろくもない親族の)宴会になることがほとんどだ。けれども、この「繰り返される」ということに何かヒントがあるのかもしれない。

 

死に直面した時、人は喪失感に苛まれ、悲しみの感情を湧き起こす。しかし、時間が経つに連れ、記憶も風化され、いつまでも悲しんではいられないということになる。その喪失に、繰り返しこだわることによって、喪失が身体に組み入れられていくことが感じられる。ちょっとわかりにくい言い方だ。言い換えれば、時間がたてば悲しみも癒えるよね。だけど、その悲しみの感情は消えたわけじゃなくて、体の記憶として残ってるよねということ。7回忌とか13回忌にもなると、故人を偲んで泣く人はほとんどいない。でも、法事のご飯(あれ、全然美味しくないよね)を食べながら、故人のことが頭の片隅にはある。繰り返すことによって、人は物事を対象化する。「事件」を「日常」のベースに引き入れる、あるいは日常を拡張する。ある種の儀式も、毎年繰り返されるということに少なくない意義があるし、多分それは演劇にも通じることだ。(では、なぜ音楽はAメロBメロAメロBメロCメロという繰り返しが行われるのかしら? これも、また繰り返しの様相だ)

 

洗骨という儀式にちょっとした凄みを感じるのは、それが具体的に身体レベルでのコミュニケーションだからだ。その骨は、過去の故人であり、現在の骨であり、かつ未来の自分であるということがあっさりと理解できる。死靈が祖霊に変わるというその瞬間に立ち会うことで、時間の流れの只中に自分の存在があることを洗うという行為を通じて確認できる。生きている人々が、死靈の人格を洗い流し、祖霊にすることに関与をする。

 

死あるいは自然物の時間の感覚と、生の時間間隔はかなり異なる。せいぜい100年ほどしか考えられない生の時間と、もしかしたら数千年単位にまで膨らむ死の時間とでは、物事の見方がまるで異なる。で、現代社会において死=自然の時間感覚というのはほとんど顧みられないし、死者とともに生きるなんていうことや、死者がまとわりついているということは、実感としてとても得にくい。けど、それを実感しながら生きれば、僕らの生に対する視点はかなり大きく変わる。例えば、PortBが上演した「国民投票」は、それを端的に表している。