深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

松岡正剛『侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力』抜き書き

 

侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力 (連塾 方法日本)

侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力 (連塾 方法日本)

 

 

日本にはある現象があった時に、そこに同時に2つ以上の見方や価値観を持ち込むことが少なからずあった。そういう見方、工夫、あるいは編集動向のようなものがあったんですね。

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一言で言えば、主題より大切な物が方法で、方法を主題に従属させてはいけない。方法によって主題を犯していくくらいでないといけないと思うようになったんです。DVDや携帯といったハード機器が、文化やコミュニケーションのスタイルを変えていくように、主題は方法のあとからやってくるものだと考えるようになりました
そういう観点で研究や仕事をしていくと、結局は方法というのは「関係の発見」であるということ、相互関係を起こしていくことこそが方法であるという考えかたに、次第に向かっていったわけです。インターテクスト、インタースコアですね。そしてそのうち、これこそが「日本という方法」ナノではないかと気がついたんですね。

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雨季の多いガンジスやインダスや黄河に育ったヒンドゥー教や仏教やタオイズムは森林型の宗教です。他新タ物です。……そのような中で身を守って生きていくためには、一人の知恵や意見では足りません……。それぞれに意見を出し合って方針を決めていく必要がある。つまり合議によって決断をしていく方がいい。

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「似ている」と「似ていない」の境目にはいったい何があるのか。こういうことにはスコアの発生や、もっといえば文化の様式の発生の根本的な秘密があると思います。もっと言えば、何かを真似る、というところに重要なヒントが有るわけです。

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もともとスコアの奥にはコードとモードの2つがあります。ところが、今日の時代、そのコードとモードがバラバラになっているように思います。だから、コーディングの技術はどんどん進んでいるのに、文化としてのモードがそこから出てこない。
……
私たちはコードというものはただの基本要素だと思いすぎているのではないですか。あるいはデータだと思いすぎているのではないですか。そして、それを集めることばかり考えているのではないか。そしてモードの方は他人任せで、それはお金で買えば済むものとなってしまったのではないか

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帯というものにはこれだけの結び方ができるソフトウェアであり、コンテンツであるわけです。モードには、このようなコンテンツ性が込められているんですね。あるいはそこには物語が出入りしている。

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私なりの言い方でもう一度整理しますと、「スコアの元はルールとロールとツールにある」ということです。ルール決め事ととロール役割と、ツール道具は3つで一つなんです。

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プロクセミックスというのはぶんかとしてもう脱げないものなんですね。生物たちが環境と整体を組み合わせてそれしかないんだというところまで来たのがプロクセミックスです。ところが、そういうものを日本人は明治の文明開化以降になると、あまりにも譲歩しすぎてきたんじゃないか。どうしても脱ぎ捨てられないものを無理に脱ぎ捨ててしまったんじゃないか。

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われわれはどうやら部分と全体を分断しすぎたんですね。一個の音は孤立しているのではなく、全体の響きの中でつながっていたのに、それをネグレクトした。

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私たち人類は13世紀から15世紀くらいまで文字や書物や手紙を声に出して読んでいたということです。
人類は長らく黙読が出来なかったんです。音読ばかりしていたんです。……時期ははっきり確定はできないんですが、だいたいルネサンスの途中くらいから少しずつ黙読をするようになった

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ベンヤミンという人は20世紀の前半においてはやくも20世紀の閉塞と反復を読み通していた得意な思想家です。そして、近現代のピークは19世紀末にだいたい極まっていて、それはパリのパサージュにあらかた陳列されていると読みきったんですね。ここでパサージュというのはパリのアーケード街のようなものを象徴しているとともに、時代の象徴的密度を通過しているという二重の意味をもっています。

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なぜなら方法日本にとって、踊りや舞って相当に大事なものなんです。わたしは梅津高畝さんの発表会にはなるべく行くようにしていますが、そこでの新たな振付や新作などもっと語られていい

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井上さたは、「動かんやうに舞ふ」と行った。日本のおどりはまず動かないことから始める。
世阿弥はそこを「動十分心、動七分身」と言った。ここには、まずは動かないという否定があるわけなのだ。これはヨーロッパのダンスと比べると、著しく異なっている。日本は動きの否定をもって舞踊を起こすのである。その上で、そこから動き出す。そうすると、そこにちょっとだけ「ほど」というものが出る。その「ほど」を少しずつ「かまえ」というものにする。
郡司正勝「おどりの美学」千夜千冊)

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いわば最初に引き算をしておいて、そこで踏ん張るものを作っておかなくちゃいけないんです。

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ヨーロッパでは白紙や真空は困るんですね。なぜならそこは絶対の無だからなんです。ナッシングは困る、エンプティは怖い。ゼロは困る。つまり「無」では困るんです。それが合理に因るラショナリズムというものを世界中につくり上げることになったヨーロッパの基本姿勢です

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ウツがウツロイを経てうつつになっていく。無はいつのまにか有になっている。ウツツには必ずウツロイが動向していて、その奥にウツがある。そういう相互関係です。

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たとえばお茶って遅そうに見えますけども、あれはとても早いんです。早いことを相手に起こさせるために、お茶は練りに練られたプランを実行しているんです。

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機能をいかして、象徴は真似していけばいいのか。素材が変化しても象徴性を維持すればいいのか
それとも、素材とともに象徴をも変化させ、想像していべきなのか。後者だとしたら、家紋のようなものが江戸時代に充実していったり、欄間のデザインが充実していったこととくらべると、この100年ほどの日本は象徴や表象を生み出す力を失っているということです。

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主題なんて、必ず民主主義と市場主義に包摂されるに決まっています。それよりも、欄間と三味線とカラオケとアニメに共通する方法の魂に気がつくべきです。

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そもそも真実というコンセプトが日本の歴史社会に明示されてこなかったように思えるからです。仏教は真如を、儒教は仁や礼や義を歌ったけど真実というコンセプトはほとんど機能してこなかったんです

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日本には負の機能があって、その負はしだいにたまって冥の世をつくっている。それで、しばしばその冥の世のものが顕の世に仮の姿で現れる。これは化身とか権化というもので、例えば菅原道真はこの権化そのものつまり権者にあたっているのだというんです。

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かつて日本には王法と仏法があったんです。だからこそ慈円のような見方もありえた。ところが王政復古で王法だけを復活させて仏法をほったらかしにした。これはおかしいですね。むろん、明治維新で王法も仏法も捨てるという手もあったでしょうが