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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

「アクトオブキリング」がいまいちだった理由

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 アクトオブキリングを見て、なんだかイマイチな印象の作品だったんだけど、それは、歴史的背景もわからないし、そもそも、「あれ、これってドキュメンタリなんだっけ? それともフェイクドキュメンタリーだっけ?」とか、「インドネシア人の顔の見分けがつかないよ」とかだったりの理由がある。けれども、一番の原因は、「見たかったものと違う」という、こちらの勝手な期待に因るところが大きい。

 じゃあ、何に期待したのかということだ。

 

 1960年代、インドネシアでは密かに大虐殺が行われていた。スハルトの主導のもとに行われたその規模は100万人という想像を絶する数字だ。(日本の)常識的に考えて、その虐殺に関与した人々は投獄され、社会から糾弾されているはずだが、インドネシアではそうではない。いまも“国民的英雄”として暮らしているのだ。そして、彼らは映像作家の勧めを受け、嬉々として虐殺の当時を「演技」する。(だけど、「インドネシアにおいては、2010年代に入っても9月30日事件を扱うことはタブー」ということだし、そもそもインドネシアって広すぎるからどこまでのインドネシアを指すのかは注意が必要)

 そのストーリーだけでもう、期待は十分だ。その時、演技は、どのような力を持つのだろうか? そして、演技は何を描くのだろうか? どのような効果をもたらすのか? 10年くらい、演技って何だろう? と考えてきた演技マニアとしては、見ないわけにはいかない。

 でも、結果的にはそのような「演技」は見れなかったように感じた。

 じゃあ、僕は何を見たかったのか?

 映画の冒頭に、主人公らしき、大量虐殺を行った男は「過去を記憶するために」「私たちが何をしたかを伝えるために」みたいな動機から、映画を制作したいという。当然、僕は、「虐殺事件を否定的な過去として」考えているのかと思いきや、全くの逆で、その過去を「賞賛」するために映画はつくられる。つまり、これは、プロパガンダであり、虐殺事件を肯定すること、その事件を通して今のインドネシア(の一部)がつくられているという「神話化」のために作られる。しかも、その神話を神々であるはずの当事者が描くところに妙がある。

 

■演技ってなんだろう?

 

 演技というのは……というと大上段に構え過ぎかもしれないけど、身体を通じて、全く別の世界とコネクトするために行われる。別の人間になり(ここでは、「過去の自分」は、別の人間として考えるべきだろう)、別の世界や空間を身体によってだけで実体化させることは演技の抗いがたい魅力のひとつだ。彼らは、過去の一点だったはずの虐殺事件を演技を通して実体化させる。そこに、歴史が生み出され、神話が誕生する。当事者たちの演技は、時にぎこちなかったり、意外と上手かったりするのだけど、そんな巧拙はあまり関係がない。過去が、現在の中に出現し、「カット」の声が掛かるとすぐにたち消えてしまう(けど、確かにそこに存在してしまった)。その瞬間の移り変わりは、演技の空恐ろしさみたいなのを感じさせる。

 だけれども、物語のクライマックスで、主人公はまさにその「演技」の力に耐え切れなくなった。演技によって実体化した虐殺事件が彼に改悛を迫って来たのだ。彼は、演技を続けることができなくなり「俳優」であることから脱落する。そして、改悛の情を述べる彼の言葉に対して、「被害者はもっとつらかったはず」みたいなことを、監督が述べる。

 その姿は、観客のために用意された「救い」のような気がして違和感があったのだ。

 「過去を再現することで、虐殺者が反省した」「人間性を取り戻した」という、美しすぎる構成が目の前に展開されている。「演技の力ってすごい」「身体を通すことによって、自分のしでかしたことの恐ろしさを認識できた」と言えば、それは演技肯定派としての僕も、非常に納得行くし、満足のいくことだ。いや、まあ半分くらいはそんな気持ちはある。けれども、半分くらいはどこか納得がいかない。この作品が求めていたのは、「演技」ではなく「セラピー」だったのではないか。

 演技はすべからく、「過去」と結びついている。「記憶」がなければ、演技をすることはできない。過去を見つめなおすために、演技が使われることもある。

 けれども、それだけではない。演技は、過去を生み出す。戦争映画で人が殺害されても残虐性を感じないで済むのは、演技を通じて過去がつくられているからであるはず。映画の主人公は、過去をつくれる存在であった。そして、それによって、新たな現在を生み出すべきじゃなかったのか。にも関わらず、どうして、過去に絡め取られなければならないのか? それは、まるで演技ができなかった、あるいは「演技じみている」俳優の惨めさのように見えた。「下手」なのだ。

 彼は、もっとうまく「演技」ができたんじゃないか。そうじゃなければ、共産主義者を連行して、拷問し、虐殺するなんてできなかったんじゃないか。過去に起こした虐殺に比較して、現在行われているその「演技」が稚拙だったから、僕は納得がいかないのだ。

 

嵐の前のインドネシア〈上〉1965年の「9月30日事件」前夜 (東南アジアブックス―インドネシアの社会)

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