深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

国際シンポジウム「老いと踊り」メモ

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鎌田東二

2レノーラ・シャンペーン

3ラムゼイ・バート

4ライムント・ホーゲ

大野慶人

6尼ケ崎彬×中島那奈

 

 

鎌田東二:日本の神話と儀礼における翁童身体と舞踊

 

毎朝比叡山に向かって真言、般若心経、法螺貝、太鼓を叩いたりする。←近所迷惑じゃ……

バク転3回する

 

変な人だ……

 

 

談山神社 

三輪山 拝殿だけ。本殿は山

三輪山から南、とうのみね 談山神社……ここから能の始まり 

観世清和、梅若玄祥など奉納の「談山能」

 

神仏分離以前は天台宗の寺・妙楽寺としても機能していた

常行三昧堂

 

祭神藤原鎌足

 

嘉吉祭

摩多羅神面 翁の元になったもの?

黒色尉 

16世紀

 

興福寺春日大社談山神社

能の中心

 

2翁神と童神と翁童身体

 

翁のイメージはどのような形で登場する?

心身変容、着脱できる

八幡縁起

鍛冶の翁→3歳の童

鍛冶ー錬金術的、鍛冶=加持祈祷 心身変容の方法

★神聖の表現=翁童身体

翁=知恵

童=生命

 

日本だけじゃない!

 

 中国でも老人と子どもは重要な意味

 十牛図 

 

翁は男性だけじゃない 老女

 

 オバアの力、ユタ、イタコ シャーマン的な力

 久高島 40〜70歳神に仕える女性

 神女になるための儀式

 オジイ・オバアが孫に生まれ変わる

 老い、若いが一緒

 

 『久高オデッセイ』←みたいなあ

 

藤原氏は日本の政治と文化を担ってきた

道長から繋がる藤原北家

通の字と、実の字

おじいさんの名前が孫に

 

3、翁童身体の原像 スサノオ

 

イザナミを慕って泣き叫ぶため海が干上がる、イザナギに追放される=破壊神。

オルフェウスギリシャ神話に

 

天照大御神に別れを告げるため高天原に。乱暴狼藉、機織り女性を殺す。天照大御神、隠れる。暗黒の世界に=破壊神

光をよみがえらせるために祭り、歌舞をするこtで、アマテラスを出現。

インドで言えばシワみたいな

 

・出雲でヤマタノオロチを退治する。口長姫を救う。日本最初の歌を歌う。=英雄神

 

・オホナムチにさまざまな試練を与えて、三種の神宝(生太刀、生弓、琴)と大国主大神という名前=知略神

 

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を

 母イザナミの醜さ 辱 能の小町者にも通じる

 負の感情の根源

 それを浄化していく歌

 鳴き声から歌へ 能に通じる

 

童神=荒御魂→青年神→和御魂=歌→知恵を持つ翁神

 

能=大蛇

草子洗小町

 

 

4 スサノオ的なもの 歌舞伎とか暗黒舞踏とかにも繋がる

世阿弥、善竹 翁を神格化

韓国にも翁がある

 

風姿花伝

神道的起源 アメノウズメノミコトの神懸かり

仏教的起源 釈迦説法の場で外道を楽しませる

家伝的起源 秦氏の先祖・秦河勝聖徳太子の時代に始まる

 

鏡の間 天の岩戸のような間

 

申楽=能は神仏習合

・翁は神の表象である。信じまい

・複式夢幻能諸国一見の僧ワキ

 

世阿弥は老いをどういうか?

老人のものまね、この道の奥義である

老骨に残りし花

老木になるまで、花はチラで残りしなり

翁=式三番

 

善竹 翁曼荼羅

 

翁は天地開闢の諸元より出現、 大日如来阿弥陀如来であり、住吉大明神、諏訪大明神、塩釜の神

腐造不滅、常住不滅

 

鎮魂と和楽

平和を招く

草木国土悉皆成仏 天台宗

 

神道とは

場、道、美、祭……

 

神道がなぜ多様で複合的か?

地理的条件、海流的な条件

曼荼羅、インド、チベットでは論理構造、ロジカル

しかし、日本では自然的なもの、俗世的なもの

 

大本教 芸術が宗教の母だ、(普通逆)

出口王仁三郎 スサノオの道を天地和楽の道として実現する

 

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舞踏とのつながり

 

能の身体、思想

暗黒舞踏の身体、思想は似ている

踏むという所作。暗黒舞踏の原型が能に在るのでは?

 

意識変容

白目をむく=面をつける

身体を着脱できるという思想。

 

■ファーカンダ→おもしろい!

 

生命晴れzんぞく、

葉っぱと九鬼

真央としてっm,生まれ変わる。葉っぱが転生していく

アボリジニ、アフリカ

インディアンもほぼおなじ思想を持っている。在るかウイックな思想の

 

レノーラ・シャンペーン

ニューヨークのアーティスト、演出家

 

メレディス・モンク

個人的なmの語りを語る。触発する

「リーセントルイン」個人的な歴史を発掘するような作品

無意識を発掘

 

2011年にダンスシアターワークショップ

最後のプロダクション、

ニューヨークライブアクト、エデュケーショングロウチャイルド少女教育

オペラ版はベネチア・ビエンナーレで金賞。音楽、儀式を多様

 

声の幅の広さ

理解しやすいだけでなく、詩的な幽玄な 独特のオリジナルの声 

背景も白、黒

 

歳を重ねるとジェンダーがない。男女とも同じようになってしまう。

性差がわからない。まるで木のような。

よろこんでいるような

中年ー主張がある

少女ー京成を待たなきゃならない

 

1972年のコンセプトを考えるとワクワクする。

豊かなおもしろい新鮮さを持つ物語

とても素晴らしい経験

 

ラムゼイ・バート

 

ピナ・バウシュ、デボラヘイ、スティーブパクストン

ダンス、老い、対抗文化の示すもの

 

1970年代。21世紀のダンスに向けてダンスのあり方を考え直し脱構築

1960年代革命的な美の転換

ジャドソンダンスが尖角。ぴなが切り拓く。NYでやってた時、トリオAプレシャーとを演じた。

 

ミニマリズム。これによって、ダンスと年齢ということが影響を受けた。

 

今回話しをしたいのはオルタナティブが浸透してくにつれ、年齢が上のダンサーがさまざまなアプローチを取れる。資本主義の新たな精神 1970年台のオルタナは資本主義に対する不満。学生運動につながる。資本主義批判の中には物自体がまがいもの、貧困化につながる、人間性の喪失

 

新しいダンスを産んだんじゃないか

 

日常的な動き、イメージを多用する、自分たちの機能するもっともホンモノに近い動き

消費社会:標準化、大量消費、受けてになる

 

個人、自立性を生む。

経済モデルに対する対抗。説得的な主張

ネオリベラルに組み込まれない

 

ピナ・バウシュ「ヴァルツァー」ジョセフィーン・アン・エンディコット

フェミニティについて、切れまくり

 

バレエエクササイズ、非難をする

見下されてきたバレエダンサー

身体を使っていろいろな主張をしてく

日常を大事に。他の人の助けは必要ない。

日常生活を踊りに取り入れる

 

大量消費への反抗、消費者の選択肢が増えたことではなく、自分自身でいること

一般的な消費文化の拒否

 

 

ヘイ サークルダンス

パクストン コンタクトインプロ

 

NYを離れてコミュニティをつくる。

バーマウントシティ

 

ヘイ ダンスの素人が踊るのにふさわしい。身体感覚を体験、センシティブになる。日常生活を大事にする。サークルダンスを作り上げる。

クラシックポップスの音を選んでダンスを振り付ける。シンプル。普通の動き。美的感覚は研ぎ澄まされていくけど、ある意味めいそうのようなものをうんでいく。一局中呼吸をする、同じ行動をする。すべてのダンスは反復の動き。反復は、音楽を感じたものを、入れ込んでいく。動き、リズム、それがサークルダンスの中に見られる。日常ダンスの方法は、自分他の人が選択する事由を祝福。大量消費を拒否。

 

1978年、評論家

優雅でもなんでもない。個々人特有の動き。独特。特別な方法でパフォーマンス。違う動きをしながらも、サークルの活動でつながっている。

文化的な認識を生む。ヒンドゥー、インディアン、ウィリアム・ブレイクウォルト・ホイットマン、詩的な部分を持つ、スピな動き、本物を補完する。

 

パクストン

ーーコンテンポラリーにおける身体の経験は本物か? 

体は自然によって作られた。周りの環境に委ねるべき

1960年台のNY、人はみな座っている、時々立ち上がる。

都市に済む人間は、自分の身体をつかってないかを認識する。

コンタクトインプロ、ポテンシャル、ホンモノに近い生き方ができる

 

1987年のインプロドキュメンタリ

フォールアフターニュートン

頭で考えると危険。身体は危険が迫っていれば、早く身体を動かすことが可能。反射神経をトレーニングする。体自身が判断をする。

 

自然な反応が頭から落ちることを阻止する。コンタクトインプロの実践、ダンスに満たないダンス、瞑想にもつながるもの、秒、秒以下の時間、状況の変化につれ、自分自身を小さく調節。バランス、立ち方を維持できる。パクストン、スタークスミス、反射神経を組み入れる。都市生活者はできない。

 

クリーチャリネス。

 

多くのシニアダンサーは若かったことは何も知らなかった。動かしたことないシステム。新しい身体能力に気づくと使いたくなる。

若いダンサーで成り立つカンパニー。高齢化、死を隠すこと? 人間が生物であることを認識すると困る

 

衝突、神との戦い、前納制、トミ、夢として諦めることができるかも。

依存から脱却する

限界を受け入れる

勇気と忍耐を示すようになる。

 

こういう踊りは、バウシュ、資本主義に対する反対、自然とのつながり

 

 

身体感覚を研ぎ澄ますダンスを通して、受容的な選択、消費社会批判

合意を求めずに水平化された社会主義、従順、

社会の目的はあらゆる差を壊すこと

資本主義的に反抗、カウンターカルチャー。でも新自由主義に取り込まれちゃった。

自分の手でつくらない。実態も労働になる。

社会的に、グローバルにつながる。けど、社会と余暇の線引が曖昧。

 

カウンタカルチャー、大量表皮、グローバル否定、個人

 

新しい身体感覚、禁欲にもつながるけえど、徐々にシニアダンサーにも受け入れられるようになる。

 

パクストン マテリアルフォースパイン

気、合気道

 

仕事のスキル、社会スキルは曖昧になる。短期的なパートナー、長期的に関与することはできない。お互いメリットなければさよならになる。社会は不安定化。ダンスー人間が人間に相対する関係の再考

 

何が筋肉の中で起こっているかを示す。

他人との関係に重きが置かれてくる。筋肉隊筋肉。

 

デボラヘイ 2006

ホールエッグセオリー

人間と社会、踊りとのつながり、最近の感心。踊る人間と観客。ダンサーは黄身、観客は白身。影響を受け合う関係性について。

 

ヘイ、パクストンの感心。グローバリゼーション。対人間、筋肉には話すけど、グローバリゼーションには関わりない。

踊ることが高齢でも可能。技術を必要としないではない、神経、骨格、筋肉、きちんと動かしている感覚がないとできない。身体は意識的にも無意識的にも動く。これを考えること、老いてくるにつれて変化すること。

 

 

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質疑応答

 

ーこの動きをなぜ禁欲に結びつけたのか

かすかな身体感覚ぅお受け止めて、発現するシンプルな美。瞑想にもにてる。シンプルだけど美しい。

 

ーシニアダンサーに対してワークをしたことはあるのか?

divide for him creatureliness 

コンタクトはシニアだけじゃなく、シニアとしての自分のための運動。

 

ライムント・ホーゲ

 

国籍も年齢も身長も異なるけど、二人が大きく違う中でコミュニケーションが取れる。

パフォーマンスの際には、ただふたりの人間。国籍、指向性、関係ない

お互いに違うこともできる。相手が違うこと尾をわたしがする。

 

一人ひとり違う素質を持っている。

お互いに違うことを理解する。競争する必要はない。

 

都市を取り過ぎていたバレリーナ彼女の女性としての経験、美しさが見える。

 

どんなに踊りたくても42歳になったらサラないといけない

若くても、年でも一緒にやる。社会あの一部。一緒にやる。

辺境に押しやりたくない。

年をとったため、身体障害者だからと辺境に。

ピナ・バウシュカンタータ

ピナは80年代踊るのをやめたけど、私のカンパニーで再び踊り始めた。

ヴッパタール1987年、ビクターという作品。

 

ーーベルリンでなぜ作品を上演しない

インビテーションがなかったから。

 

ーーストロングプレゼンテーション

出会い、歳の差を超えたふれあい。どのような距離を図っているのか?

 

自分はクリエイターではない。ディスタンスが必要。感情の表現でも必要。その間の距離感、間を図ることが重要。離れていても親密感。そういった空間の使い方。

 

 

中島ななこ×尼ケ崎彬

 

尼ケ崎

・ダンサーの現実の身体が老いていくこと

・登場人物の老い

 小町もの、高砂

 イメージとしての身体(演じられた、フィクションの、バーチャルな身体)本名、芸名、役名

 日本では老いを否定的に捉えない

 

演じる身体/素の身体

日常のものとプログラムと違う。

 

ダンサーの老い

 

■老いるとはなにか?

・衰退

身体能力の衰退 筋肉、スタミナ、コントロール →下手になる

カニングハム、マーサ・グラハム

 

知力が劣る 記憶力、集中力、判断力

想像力の低下

 

美貌・性的魅力の低下 老醜

生命感の低下 老衰

 

<肯定的に見る>

身体能力ー衰弱体、学習以前の身体 弱いけれども「本当の」身体

知力ー老人力、ボケる=大事なことだけを記憶する

容姿ー非性化・神仏的存在 聖性

 

余計なものの剥落による存在の本質の露呈

無常、無垢(学習、欲望が欠落する)

 

・蓄積

経験値 年の功、暗黙知→上手

成熟 人間としての存在感  芸=技術の蓄積+人生経験→表現の深さ

 

若い演者では表現の深さが出ない

成熟のためにある程度の年齢が必要

 

・余生 余白の時間 

 

人生から離れる、死者=他者の目を持つ

複式夢幻能、死者が主人公

社会が持っている文化的価値体系ではない

「死を決意した自分には、自然が美しく見える。死者の目」(芥川

社会的拘束から離れる=世俗的煩悩を捨てる 隠遁者(すべてを捨てて山に籠もる)、聖職者

性的属性の剥離 純粋な人間、人類であることを捨てている=神に近い人間、翁

 

■能における視点の転換

 

観阿弥足利義満の前で、翁を演じる(長老ではないのに)

 価値基準の転換

 老人が演じるのではなく、技量のある人が演じることに

 →儀式から芸術へ

 現実の身体がおいていることが大事だったんだけど。。。 

 

■老いた身体の価値

 

 ・日常的な身体(素、本名)

 ・演じる身体からにじみ出る汲み取られるもの

  演じている身体が意味合いを持って迫ってくる。大野一雄が若かったらあの輝きはない

 ・残り香 美の痕跡、過去の幻影

  萎れたると申すこと、花よりもなほ上のこと 風姿花伝

   ※花の痕跡がないと、ダメ! 開いている花よりも痕跡のほうが価値がある

 

■鑑賞から目撃

人生を抱えた人が踊る

事件を目撃する

 

老年のカニングハム

コンタクトホーフの老人版

 イメージとしての演劇ではなく、老人たちが踊っている、演じている姿を見る。虚構の世界ではない。そこに立っているのを見る。それでいい。

 

でも、必ずしも老人ではなくてもいいし、舞台じゃなくてもいい

 

多様な身体がそのままの価値を持つ

Isaac’s Live Lip dub proposal

 

 

 

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N エイジングという意味での老い。歳を重ねるという意味を考えてた。老人と言ってしまうためらい。老いた人、これから老いていく人、年齢、ジェンダーの捉え方、すごく難しい。素の身体、花柳としなみ、ご祝儀もの、神仏的存在として素踊りを考えられる

近代化の問題をどういうふうに考えればいいか? 演技、演劇、舞踊、近代化以降の演劇。ダンサーが老いる、ダンスの違い、振付家とダンサーを分ける近代化以降。演技の問題、シニア劇団、俳優の人が普通の演劇では考えられない演劇作品としては成立しない状態。上演、作品としての期待。もし、それが即興、きめられたものであったり、作品として固めないことはどういう可能性を持つのか?

 

A 座長が権力を持っていた。古典では、自分の振付ではない過去の作品。クオリティをどうするか。ダンサーの身体の衰えはマイナス要因。ダンサーの最大限の仕事をさせる

 

Nコンタクトホーフ、支持を出していた。振付家であり、作品とともに生きていた。そのあり方はすごくおもしろいし。作品とともに生きている。

 

Aピナの場合は特殊。彼女の作品は細部はダンサー、でも全体はピナの作品。ピナが死ぬと、少し違うということが起こるんじゃないか。

台湾でやったとき、ピナが来なかった。でも、作品が緩んでしまった。緊密観が薄らいだ。キュー出し、ピナの存在がないから、ピナがそこにいないと、完全に再現できない

 

N花柳さん。古典についての考え方。宮古見物座獲物、古典を考える切っ掛けになる。古典を振りつけた人は存命じゃない。どういう意図、意味的なもの、聞ける尋ねられる存在がいない。みやこは、本人に意味を聞ける。ありがたいこと。ピナのライブキューの話。

 

(略)

 

A古典はエイジング。世阿弥が上演したものとはだいぶ違う。能は上演時間2倍になった。一種のエイジング。

 

(略)

 

身体が違えば同じ方法論を使っても生まれてくる世界が違う。先代との差。型は厳格に継承しているのに、なんか違う。それは、日常の身体が違う。文化的な環境が違う。処さが保つ意味も時代によって違う。身体の癖、価値観、方は同じでも、実現しているイメージとしての身体が違う。エイジング? 変化? いろいろだと思うけど。少なくとも「昔と同じもの」ではない

 

N老いを高齢者の問題とみるか、老いというプロセスの問題にするか、老いきれない若者、ダンサーはどういう風に捉えて行けばいいのか、そういう可能性。記憶、経験、過去、時間軸としては過去完了形。未来への方向性へ投げていくとどういう問題提起に? コンタクトホーフの老人版、観客の大半がシニア。演出家の高齢化、観客の老い、