深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

島田裕巳『0葬』抜き書き

 

0葬 ――あっさり死ぬ

0葬 ――あっさり死ぬ

 

 

P5

家に仏壇がなければ、死者は家に戻るすべを持たない。

生者と死者は分離された。生者の生きる世界と死者の生きる世界は、ほとんど交わらなくなった。

 

P9

自由であるということは、拘束がないということであり、同時に寄る辺がないということである。

都会に生きる人間は、何よりも自由を再優先し、死者との関係を遠ざけることで、自らも死後に消え去っていくという道を選んだ。

(略)

そして、死後に生者とともに生きないと決めた人間には、その人間にふさわしい死に方があり、弔われ方があり、死後の処理のされ方がある。

 

P24

日本の葬儀費用231万円(2007年財団法人日本消費者協会

 

P33

墓の永代使用料と墓石を合わせた金額

東京都278万円(2012年鎌倉新書)

 

P45

村には埋葬した場所とは別に、詣でるための墓が用意され、そこには墓石が建っていたが、その下には遺骨は入っていない。

こうした形態は「両墓制」と呼ばれる。両墓制においては、実際に遺体を埋める「埋め墓」と、墓参のための「参り墓」とが区別される

 

P50

平等を説いているはずの仏教が、社会的な差別を明らかに示すような戒名おw作り上げたことは、かなり矛盾したことだが、共同体における秩序の維持、さらには社会の安定ということに対しては、その制度が寄与するところが大きかった。

 

・戒名の半数以上に院号がついている

 

P74

高齢になるまで生きれる可能性が高まったことで、第一章でも述べたように、わたしたちは「死後の不安」という新しい不安を抱えるようになった。死んだ後、自分はどのように葬られるのか。それに対する不安が増大している。

 

P78

そうした地域では、移動するとなれば車を使用するのがあたりまえで、葬儀にも車で出かけていく。そうなると葬儀をする場所には駐車場が必要であり、必然的に業者の運営する葬祭場や葬祭会館が会場に選ばれる。自宅で葬儀をしようとしても、駐車場がなければそれは不可能なのだ。葬祭場や葬祭会館を使うということは、必然的に業者に頼るということになる。

 

P102

しかし、全体的には、法事という慣習は急速に廃れてきている。

法事は、基本的に葬祭業者の管轄外である。法事の際に収入を得られるのは、それを執り行う寺院だけである。法事の省略や繰上げは、寺院経済にとって大きな問題のはずである。

 

P134

したがって供養とは、施主が飲食や鼻をお供えし、また読経をすることによって、善根の功徳を積むことです。

その功徳を回向することによって、ご先祖っ様や個人に対し、さらにすべての人々の冥福を祈り、合わせて自分を含むすべてのものが仏道を成就することを願うものです。

 

P136

インドの人々は輪廻転生を信じていた上に、自分が人間よりも下の、たとえば動物や虫などに生まれ変わることを恐れていた。

……

日本人は生まれ変わりを恐れていない、むしろ今よりいい境遇に生まれ変われるのではないかという希望を持っている。それは中国や朝鮮半島でも共通する。

 

p142

しかし、雲水が修行に専念するためには、それを支える経済基盤が必要である。修行に明け暮れていれば、他に収入を得ることはできない。それは同上の崩壊にも結びつく。

そのとき、禅寺の経済基盤を確立するために動いたのが曹洞宗ではどう言とともに荷台開祖とされる瑩山紹瑾であった。彼は中国の全集に伝わる禅苑清規という書物を元に、修行途中で亡くなった雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道を開いた。

 

P145

先祖を供養すると言う考え方は、もともと仏教にはなかった。仏教はその開祖である釈迦が出家したように元来は家を否定するものであり、むしろ家を離れ、世俗お世界から離脱することを奨励する宗教であった。

ところが、これも中国を経てのことだが、仏教の中に祖先を重視する儒教の教えが入り込み、祖先崇拝の観念が浸透していった。

 

149

仏教式の葬式では、死者がどういった世界に赴くのか、それを語るストーリーがある。死者は抱擁を繰り返す中で、世俗の世界から解き放たれ、やがては西方極楽浄土に往生できるという物語である。神道式やキリスト教式にもそれはあるが、無宗教式には、あの世へ向かうストーリーが根本的に賭けている。

 

P150

高齢での死はそのままで十分に大往生と入れるもので、遺族も個人は現世での生活を満喫し、押下した上で亡くなったと考えている。はたしてそうした死者のために、遺族が功徳を積み、それを回向として振り向ける必要があるのだろうか。

 

P154

浄土教信仰は、穢土に生きる人々に来世が素晴らしいものであると説くことによって希望を与えた。人々は穢土の苛酷さに耐えるためにも、その進行にすがった。なんとか浄土に生まれ変わりたい、その思いは切実だった、

しかし、現代のように現世における暮らしが幸福で安楽なものになった中では、現世を穢土と捉える感覚は生まれない。

 

P197

しかし今では先祖崇拝が衰えることによって、先祖の霊、先祖の祟りといったことが指摘されたり、強調されたりすることはなくなっている。そうしたことにリアリティがなくなってきたからである。

それは、わたしたちが死者から開放される道を歩んでいることを意味する。それは時代の必然であり、私たちの生活環境の影響に寄るものである。

 

P202

土葬時代には、仏教の僧侶が供養を行うときにも、位牌は対象になるが、土の中に埋められた遺体はその対象にならなかった。遺骨が重視されるのは、火葬という習慣の広がりが産んだ新しい傾向なのである。