アガンベン「バートルビー 偶然性について」抜き書き
バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』
- 作者: ジョルジョアガンベン,Giorgio Agamben,高桑和巳
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2005/07
- メディア: 単行本
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ケント氏から渡された課題図書。久々に哲学の本を読んだ。
P38
我々の論理の伝統は潜勢力の問題を、しばしば意志や必然性といった用語に還元することで通ってきた……しかし、潜勢力は意志ではないし、非の潜勢力は必然性ではない。……
P41
バートルビーはまさに、潜勢力に対して意志の持つこの優位をあらためて問いに付している。神は自らの欲することしか本当になすことができないが、バートルビーはただ意思なしでいることが出来る。彼は、絶対的潜勢力によってのみかのうである……彼の潜勢力はいたるところで意志を超え出ている。
P51
意志は何を欲するにも無差別である。したがって意志は、欲望するから欲するというものでもない。実のところ、意志が何かよりもそれ以外の何かを欲するということに、どのような理由もありはしない
P51
バートルビーが我が家とする禁欲的な怠け者の国には、あらゆる理から完全に開放された「よりむしろ」だけがある。それは好みや潜勢力といったものであって、それはもはや無に対する存在の優位を確証する役には経たず、存在と無のあいだの無差別のうちに理由なく存在する
P54
科学実験では仮説は単に真偽に関わるものだが、詩や至高における実験は何かが真となるかならないかだけが問題に鳴るのではない。それは存在自体をその存在の真偽の手前ないし向こう側で問いに付すのだ。
P61
私は、何らかの仕方で振る舞うことができ、それと同時にそれとは別の仕方で振る舞うことができる。スコトゥスは意志は決定であるというより、なすことが出来るということとなさないことが出来るということ、なすことを欲するということと、なさないことを欲するということ、これら2つの間の構成的かつ還元不可能な共属関係を経験することであると言ってもいる。
P73
この実験(バートルビー)が目指すものは、もっぱら特定の潜勢力自体が真であるかを示すことである。つまり存在することが出来ると同時に存在しないことができるものが真であるかを示す
P75
「それはそのようであった」これこそ意志の歯ぎしりであり意志の最も孤独な悲嘆である。意志はすでに行われたことに関しては無力であり、過去を見つめる悪意ある観客だ
P78
潜勢力への意志とはじつは意志への意志であり、永遠に反復される現勢力であり、反復されることでのみ潜勢力を回復される現勢力なのだ
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「バートルビーの謎」高桑和巳
P168
大人しくこの静かな存在は、もう永久に他の人々から分離されてしまっている。彼と交流するうことはまだできるが、助けることはもうできない。
P169
解けるはずのない謎、解けナイにもかかわらず解くように執拗に迫ってくる謎というのが存在するのであり、文学におけるそのような謎の中で最大級のものがバートルビーなのではないか
P171
この「受動性」「拒否の結節点」「外の領野」「中性的なもの」こそ、ブランショがバートルビーという謎に与えた仮の名の数々である。
P186
特定の判断のないところであっても、そこにパトスが存在していないとは限らない。そのことを告知するのがバートルビーのメッセージである
P191
死へと行き急ぐものが存在する。そこには意味も生産性もない。それはどのような共生の試みにも抵抗するが、だからといって抵抗するにあたってなんらかの強い力を示すわけでもない。そのようにして、それは目に見えないものになっていくが、とはいえ、それが存在していることに変わりはない。そこにおいて救済に依拠する語りは限界に到達する。そのような像のなさに対して「わたしたち」ができることは解きほぐすことのできないその結び目自体に対して場を与えることだけとも思える