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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

民俗芸能調査クラブ 実験レポート

 

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動機

 今回は、実験として「土葬」を行った。

 「土に帰る」また、そこから「(生命が)循環する」という感覚が少なくとも東京に暮らす私たちにとっては薄くなっている。土葬をするということで、「腐食する」という人間の時間感覚とは異なった自然の(あるいは死の)時間の流れを感じることができるのではないだろうか。

 バリ島でワヤン(影絵芝居)を見た時に、何か「大きな時間」に取り巻かれているような感覚を感じたのは、「人間の時間ではなく、死者の時間が流れていたからだ」と言い換えられるのだろうか? その時間に対する感覚が、何やらとても魅力的であり、芸能というものを解きほぐすために、とても重要なのではないか。

方法

 実験の方法としては、何を埋葬するかという部分がネックになるが、記念写真を撮影し、それを埋葬することとする。理想としては動物の死体のようなもの、あるいは自分の身体の一部を使用した方が、ひとつのテーマである「自然(死)の時間間隔と人間(社会、生命)の時間間隔のズレ」がより鮮明になるだろうが、さすがにそれを手に入れることは難しい。けれども、写真に映ったイメージであれば、自分の分身のようなものとして近くできるだろう。これは、最近、写真家の志賀理江子の本を読んだことも関係している。

 まず実験の第1段階として、写真を公園の中の土に埋葬する。

 続いて、翌週に行われた第2段階で、それを掘り返した。

 当初、第2段階の実験の際には、ただ掘り返せばいいかとも考えたが、それだけではその時間の流れを感じることは難しいのではないか、実験の効果として弱いのではないかと思った。そこで、参加者が埋めた写真をペーパータオルで拭き、その写真を写真立てに収めるという工程を追加した。それによって、仮の埋葬から、「本葬」へ移行するというような意味合いが出てくるのではないかと考えた。

 

結果

 実験を行った結果、土葬をしたその瞬間は、ちょっとした感慨のようなものが得られたけれども、でもそれは持続しなかった。どこかタイムカプセルを埋めるという行為と変わらないものになっており、ちょっと失敗したかなと思った。けれども、第2段階として、掘り起こし、さらには拭うという行為を通じて、どこか、写真、もしくは写真に刻まれた時間に対する「愛着」にも似た感覚を得ることができた。参加者たちの写真を拭う手つきが慎重で、写真に対して向き合っているように感じられたのだ。

 また、それを額に収めることで、1週間前の時間が切り取られ、まるで葬られたかのような感覚になった。もしかしたら、写真を撮影する段階で、もう少し何らかの操作(例えば、嫌なことを強く思い出させる仕掛けやその時間を葬りたい時間にするなど)があれば、この実験の意味合いは少し異なったかもしれない。

 

考察

 切り取られた過去のある時間を、未来から何度も見返すことで、それを対象化することができる。そして感覚の中にそれを組み込むこと、あるいは、身体をそれに合わせて変形していくこと、それを人は「供養」と呼び習わしてきたのではないだろうか。そうやって、人間は誰かを弔ってきたのではないかと考える。

 例えば、与論島には「洗骨」という儀礼が残っている。土層によって数年かけて白骨化した死体を親族らによって掘り返す。そして、堀り返した骨を水でよく洗い、墓に納めるという風習だ。

 

 ここには、様々な角度から彼らの死生観がかいま見えるが、そのひとつとして、繰り返されることの重要性が見いだせるのではないだろうか。そして、そのような反復性は、儀式や芸能にも少なくない重要性を占めている。