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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

俳優と呪文

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俳優が台詞を言うと言うのは、いったいどういうことなんだろう?考えれば考える程、よくわからなくなるのだ。そして、共感してくれる人も、もしかしたらどんどんと少なくなっていくのかもしれない。けれども、考えてみよう。

■俳優は見えないものを見せる

例えば、ハムレットだ。俳優は、ハムレットを演じる。そして、台詞を喋る。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」。これは、ハムレットの言葉だ。であるけども、これは俳優が喋った(劇作家が書いた)言葉でもある。観客は、これを「ハムレットの言葉である」と「解釈」をする。

  

この「解釈」というのは、ちょっとややこしい。それによって、観客は、物語世界に没入することができる。けれども、同時に、その力を物語世界の中だけに留めることにもつながる。これは、「物語世界での出来事=現実ではない」と、いとも簡単に切り取られる。

 

「いや、そうじゃなくて、これは現実だ。僕らは現実に働きかけているんだ!」と演劇が主張をし始めると、とても面倒なことになる。というか、現代美術も、現代音楽でも、現代演劇でもそれがどこか面倒なのは(でも、それが面白いんだよ!)、多くがこの転換に由来しているのではないかと考えている。これはフィクションじゃない、これは現実だと。

 

現実も、虚構も、よく考えたらそんなにきっぱりと分けられているわけではない。観客は、虚構から現実を引っ張ってくるし(人に優しくしなきゃとか)、現実そのものがすでに虚構で成立している(父親という役割を演じているとか←福田恆存の『人間、この劇的なるもの』が名著なので読むように!)という側面もある。

 

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

 

 

僕は、俳優という存在が好きで、すごいなと尊敬している。ここで、僕が言う俳優とは「見えないもの/語られないものを出現させる」力を持っているということだ。件のハムレットの台詞なら、「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」という言葉によって、ハムレットという存在すべてが現れたりすることがある。台詞というのはあくまでも氷山の一角にすぎない。その言葉が吐かれることで、海面下の氷山が顕になる。その厚みは、虚構か現実かという二項対立をあっさりと飛び越えて、どうしようもない実感を観客に与える。その時、その声はまるで物体のような重みとか強さ、具体性を有する。もしくは、そこに導いてくれる。

 

それを、演劇の人たちは、「もっと気持ちを込めて!」「感情を!」ということで、生み出そうとしてきた。けれども、それは「感情」のもたらすものなのだろうか? というか、その発想に対して、スポ根的なものを感じて、非常になんか、嫌なのだ。

 

■言葉には力がある

 

今、僕は「声」について考えている。そこで「国褒め」というものに行き着いた。

 

「国褒め」と検索すると、なんか、ポジティブマインドとか、地元愛最高!みたいなどうしようもない話ばかりなんだけど、浮遊という劇団の遊佐くんにきいたところ、「言霊信仰の現れです。良い和歌を詠めれば土地を従わせることが出来、失敗すればその土地の神が荒ぶる。ニニギノ命の前の2王子は国誉めに失敗し、命を落としています」ということらしい。

 

だからなんだ。伝説上の話じゃないかと切り捨てないで、お付き合いいただきたい。

 

例えば、誰かに「死ね」と言われる。すると、まあ嫌な気持ちがする。時にはその死ねという言葉を引きずったりするのは、理解しやすいだろう。それは「死ね」という言葉に含まれる「情報」の効果ではない。そこに含まれる「情緒」の効果だ。あるいは、「イメージ」の効果と言ってもいいかもしれない。それは、人に影響をおよぼす。もしかしたら、本当に死んでしまうかもしれない。

 

つまり、ベッキーだ。ベッキーは絶対にネガティブなことを言わない。その言葉が、自分に返ってくるからという話を聞いたことがある。ベッキー、やるじゃないか。

 

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そんなこんなで「国褒め」のようなものが生まれた。言葉は神様につながる力を持っている。

 

じゃあ、その言葉に向き合うとき、つまり、俳優が言葉を発するとき、その言葉に対して、どのような作法が求められるのだろうか?

 

神社とかで祝詞を上げるとき、神主は、たいてい低い声を出す。長い息で一音一音をゆっくりと発声する。なぜそうするのかは、僕にはまだよくわからない。でも、そう発声することによって、どこか、異界に向けて(人間じゃないものに向けて)発声しているような気がする。彼らは、人間ではなく神に対して言葉を捧げている。そして、僕ら人間は、その声に立ち会っている。

 

「すげえ、じゃあ、次回公演でもそれやろう! じゃあ、俳優は低い声で、この世のものじゃない方向に喋ってくれい!!!」

 

とはならない。

 

だって、祝詞って、眠くなるし、何言ってるかわからないし、退屈だし……。

 

そもそも、俳優がその発声に耐えられる身体を持っていないんだけど、それなら身体を鍛えれば解決する。けれども、根本的に、それが祝詞としての効果を生み出さないならば、それは祝詞にはならないのだ。その祈りを発話者(神主)も、参加者(観客)も共有できて初めて、祝詞という効果が生まれる。生み出したいのは、その効果であって、様式をなぞることではない。ただなぞられただけの様式ほど悲惨なものはない。

 

言葉が、情報伝達以上の力を持っている。その効果を発揮するため、声はどう向き合えばいいのだろうか?

 

■声の「強さ」を生み出すために

 

俳優が涙声でしゃべると、涙腺が刺激される。息が詰まった喋り方をすると、なんだかこちらも胸が苦しくなるという状況がある。

 

これは、「言葉が感情の揺れを表現しているので、その感情に共感している」という話じゃない。その声から、発話者の身体が読み取られることによって、観客の身体が反応しているのだと考える。例えば、電車の中で子どもが泣いているときに、耳障りに感じるのは、身体を無理やり反応させるからなんじゃないか(かといって、子どもの鳴き声を疎んじてはいけませんよ!)。

 

文字を基軸に考える現代社会では、声の力というのは、とても限定的に取り扱われているけどそれは、声が届く範囲が文字に比べてとても狭いという理由に由来している。けれども、声は動物がコミュニケートする上で欠かせないメディアであり、その可能性は、実は文字情報よりも遥かに広い世界が広がっている。この「文字情報よりも遥かに広い世界」に対して、僕は演劇の意味を感じている。

 

声は身体に結びついたメディアだ。「他の世界とつながっている」という「感覚」(これは、身体のものだ)を与えられるものだし、「ここに別の何かが広がっているかも」と反応させることができるメディアだ。

 

祝詞」を例にするなら、まず「他の世界に向き合う」ための身体が必要である。次に「言葉持つ「力」を発揮するための」身体をつくる。そして、「その言葉が世界を祝福する」という感覚を得るということが考えられる。それらを強固に抱くことで、「祝詞」としての声が生まれるんじゃないか。

 

テクニカルに言えば、それは、「日常」の身体よりも、力を抜いて、身体の中を空っぽにするイメージをつくる。さらに声が(下腹部?もしくは自分の後方から)物体として生産されるイメージ(ワギャンランドみたいな、もしくは空也上人立像みたいな)が必要な気がする。これは、まだ精緻に検証していないので、もしかしたら違うかもしれない。

 

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けれども、そうやって言葉と声に向き合うことで、俳優は、観客に「実感(身体的な体験)」を与えられるのではないかしら。それが成功したら、それはもう、台詞じゃない。呪文だと思う。