深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

「福島でゴドーを待ちながら」から2年半

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1月に今年、イタリアのローマ市演劇記念館で展示され、それが好評だったらしく次はフィレンツェにも行くそうな。佐々木敦氏の本にも書かれ、そして、4月から国内の某所でも展示されるらしい。←確認したら情報出していいそうな。早稲田大学の演劇博物館で開催されるサミュエル・ベケット展です。

と、今のところ、いちばん「売れている」コンテンツだ。いや、金は入ってこないんだけどね……。

 

シチュエーションズ 「以後」をめぐって
 

 

 

この件について詳しくは冊子を作っているので読まれたし(公演の会場で販売中!)。

 

2年半経つと、記憶が曖昧になって、忘れている部分も少なくないんだけど、その時は分からなかったことがだんだんとわかるようにもなる。

 

東日本大震災に対して、なぜ反応が起こらないのかということに、疑問を持っていた。というか、「誰かがやって当然だろう」と思っていたのだ。だって、寺山修司だったら多分やるだろう。しかし、待てど暮らせど誰もやらない。じゃあ、自分でやろうというわけだ。

 

将来(しかもそんなに遠くない将来)、東日本大震災を振り返るときが必ず来る。アートだったら例えばChinPomの「明日の神話」があった。じゃあ、演劇は何があるんだろう? 

 

けれども、演劇には、根本的な問題がある。「観客」がいないと上演が成立しないのだ。僕の中で、上演することに対して、二の足を踏むことにこの問題があった。例えば、福島の人に何かをみせ、それがなにがしかの意味を持つとは思えなかった。それは、僕の作家としての力量や作風という問題もあるし、「劇場」という「日常と隔絶された場所」にも問題もあった。

 

それを打ち破ったのは、「民俗芸能」というものの考え方だ。その時、僕は「民俗芸能」というものに触れ始めた頃だったはずだ。そこでの考え方、つまり「誰にでもわかるものである必要はない(村の人だけがわかればいい)」「神様のためにやる(観客のためじゃない)」「遠い時間を射程距離とする(子孫とか先祖とか)」という考え方に、ひどくびっくりした。

 

演劇とは、「観客」のために行うことであり、「観客」とは、「(とりあえず日本語を理解できて、2000円くらいのチケット代金を払える)人間一般」というものを指している。その考え方に、当時、ものすごい違和感を感じていた。さりとて、そこからはみ出す事もできず……という悶々とした状態だったのだ。

 

だから、『福島でゴドー』は、演劇制度における「観客」に対する実験だったとも言える。「10年後の日本人」もしくは「外国人」を「観客」として定めた。だから「上演を目の前で見る人」という意味での観客は不要だった。

 

そして2年たち、それは同時に上演の枠組みを変えることも意味するんだなと発見する。ここで、上演は「観客の目の前で俳優が行為をする」ことを意味しない。ここで、上演とは「YouTubeの動画」であったり、「本で読んだ」だったり、「それを行ったらしいという口コミ」であったり、あるいは現在こう書いていることも上演なのだ。『当時、原発から20kmの場所で演劇を行った人たちがいた』という事実に対して、想起されること、考えさせること、かもめマシーンの『福島でゴドーを待ちながら』の上演は、まだ続いているし、これからも続く。

 

なんか、とてもアートっぽい屁理屈にも見えるのだが、けっこう本気でそう思っている。

 


Kamome Machine - "Waiting for Godot"@Fukushima - YouTube