深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

民俗芸能調査クラブ 報告書用のテキスト

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■じゃんがら念仏踊り(福島県いわき市) 

調査日:201385

 

(概要)

起源は江戸時代に遡る。浄土宗の高僧祐天上人が南無阿弥陀仏の称名を歌の節にあわせて踊りと共に唱えさせたという説や、市内各地にあった、老人たちによる月念仏講から派生したとする説などがある。沖縄のエイサー、平戸じゃんがらなどとの関連も指摘されている。

 

 

(レポート)

この日は、七夕祭りの一環として、駅前の広場でのいわばデモンストレーションとして開催。本来は、盆に集落の11軒の家をめぐるものである。いわきの七夕祭りは、20世紀初頭に仙台のものを模して開催されるようになったという経緯があるらしいが、ここでは関係ないので詳細は省略。

 

提灯、太鼓、鉦など十人程度で構成される一団は、各集落ごとに分けられている。20代〜30代くらいの若い人が多く、人手不足のような心配は少ないのかもしれない(それは、傍目からの観察なので、内情はわからない)。ただ、舞踊の質を見ると、まちまちなのがよくわかる。魅力的には感じられない集団は、まるで体操のように身体を使っている。一方、魅力的に感じる集団を見ると、どこか、「ノリ」としか言い表せないような身体の動きが感じられる。腰、膝、主に下半身に、じゃんがら念仏踊りのアイデンティティがあるのではないか。この「ノリ」が残されないなら、伝統芸能と呼ばれるものに意味があるのだろうかと考える。

 

しかし、その「ノリ」を体得するのは、とても難しい。「花祭り」(愛知県東栄町)を習いに行った時に、この「ノリ」を、参加者の誰もが生み出せない事実に直面したのだ。

 

芸能が必要とする身体という物がある。しかし、それは一朝一夕で身につくものではなく、また汎用性の高い(別のダンスや芸能に利用できるプラットフォームではない)と言うのは、かなり残酷な事実だ。それを体得するコストは、現在を生きる「私」というものの可能性を少なからず狭めることになる。だったら、と、バレエやヒップホップダンスを体得した方が利用できるのではないかという思考になるとすれば、それは十分に理解できる。

 

では、どうすればいいか?

 

 

例えば、祖先から受け継がれてきた「私」というものに魅力を見出だせるなら、それはまた別の魅力を持つかもしれない。つまり、空間的な広がりではなく、時間的な広がりを重視すること。それによって、先祖、土地、地域などと身体を共有することは可能になる。それに対して、どのような価値を感じることができるのだろうか? もしも、それができないなら伝統芸能は、学校で習う体操とほとんど変わらないものになってしまう。そして、それには、残念ながらほとんど魅力はない。