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深川日記

演劇は劇場の中だけで行われているわけではない

野良 『おはよう日本』上演後記

かもめマシーン

武藤大祐さんより、「野良のベストパフォーマンス賞」と言われましたかもめマシーンです(拍手!)。『おはよう日本』もっとやりたいなあ、どっかで呼んでくれないかなー。遠方でも、交通費は青春18切符でいいし、夏場なら橋の下のテント宿泊も辞さない構えですよ。

 

稽古動画


かもめマシーン『おはよう日本』 稽古動画 - YouTube

 

 



というわけで、まとめ。

 

おはよう日本』着想のきっかけ

もともとの出発点は、昨年末に宮下公園のホームレス支援者排除をしているUSTREAMを見て、こりゃダメだと思ったのが発端。宮下公園を追い出された彼らが、公園内に入れるように警察に要求していたんだけど、どうも彼らの要求が通るような気がしなかったのだ。

特に、その中の男性が、拡声器を持ち、「寒いんですけどー」みたいな感じでしゃべっていたのが印象的だった。どうして印象的だったのかというと、有り体に言えば、チェルフィッチュの「3月の5日間」に出てくるような喋り方だったからだ。そのだらだらとした喋り方(やや後ろに重心を下げ、胸を発話対象に世帯させない斜に構える)では、何も変わらないんじゃないかと思ったのだ。


上記は、その活動自体を批判しているわけではないよ、念のため。

「相手に対して主張し、その主張を届け、状況を変化させる」

ということが、少なくとも僕は苦手だし、僕の周囲の人を見ても、そんなに得意な人はいない。それは、根暗ばかりが友達だからじゃなくて、コミュニケーションによって相手に対して変化や影響をおよぼすということに、慣れていないし、そんなことはそもそも求められていないからなのではないかと考えている。

例えば、友人に「自殺をしたい」と相談されたなら、僕は「自殺をしないほうがいいと思う」という僕の意見しか言えない。それを「やめさせる」という行動ではなく、「やめてもらう方向に、僕の考えを提示する」しかできないのだ。

 

そこで、思い至ったのが、別役実の名著、『ベケットといじめ』である。ここに、登場するSくんは、葬式ごっこのいじめをされて、「俺が来たら、こんなことしてやんの」と言う。「ふざけるな」という激昂ではなく、そこには、メタレベルからの状況の是認しかない。僕も、同じ状況に置かれたら、多分、彼と同じようなことを言うだろうし、この20年位の日本は、実はこの言葉に集約されるようなイメージだったのではないかと考えている。『3月の〜』も、例えば秋葉原事件もそうだ。メタレベルから、状況に参入しないことを選択することによって、僕は僕の存在を守ってきた。

だが、もう、そういうゆとりもそろそろなくなってきたのかもしれない。けれども、じゃあ、「ふざけんな!」と激昂できるのかといえば、決してそうではない。それは、意味を成さない。じゃあ、どうしたらいいんだろう?

先日、放送された大島渚のドキュメンタリを見て、何だかひどく反省させられた。彼は、ひどく怒っていた。なんせ、ナレーションが「日本人よ、これでいいのだろうか!」なのだ。そんなセリフ、どう考えても書くことはできない。でも、大島渚は書いた。そして、それは、ひどく胸に迫ってくるものだった。

僕は、常々、ある種の諦めを抱えている。怒っても「怒り」にならないから、別の方法で「怒り」を顕現させる方法を探っているし、ある種のかっこよさ(いい発声とか)に対してあきらめているから、だらだらした喋り方の中に「いい発声」を探っている。「大文字」に対する諦めと言い換えてもいいかもしれない。

じゃあ、まあ今回は、その「大文字」を「大文字」のままにやってみようということから、スタートした。勝算はないけど、福岡で一回きりだし、つまらない作品になっても東京の人にはバレないからいいや、という気持ちもあったw。

 

稽古の流れ


で、ひたすらYouTubeを見たりしながら、だらだらと怒りについて話していた。その中でも、F/Tオープニングプログラムの「光のない。」で見せたいとうせいこうのパフォーマンスや、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのPV(sleep now in the fire)などは非常に感銘をうけた。キレッキレなのだ。たまたま稽古場の近くでやっていた山本一太の演説を聞きに行き、僕は悪くないと思ったけど、清水は「きもちわるくなる」と途中退席したり、外山恒一さんに挨拶しがてら、ほめご…の体験をさせてもらったりした。


「社会」でも「国家」でも「政治」でも、「かっこよさ」でもいいけど、それらに対抗する手段として、僕らは徹底的に小文字な身振りを使ってきた。だけども、それによって、いつの間にか「弱く」なっていることは否めない。その弱さは決して肯定されるものではない。だから、今回目指したのは「強い」言葉だ。その強さには、声が大きいとか、がなりたてるとかいう表面上のものも含まれるが、最も切実なのは身体のテンションだった。今振り返ると、そのテンションを発生させるために、様々手練手管を使ったんじゃないかしら。

僕らの身体は、いつも拘束されているんじゃないか。電車の中で変な動きはできないし、公共施設で大声を出してたら怒られるし。それによって、身体はどんどんと可動域を削られ、弱くなっていく。現代演劇の俳優は、現代人を写す鏡のような存在である。彼らは、筋トレをする必要もなくなり、ぼそぼそと喋るようになった。

筋肉がなくても、その身体のテンションを張り詰めさせることはできる。それによって、「強さ」を獲得することはできる。その「強さ」によって、今回観客に影響を及ぼすことを目論んだ。それは、一種のアジテーションだ。そのアジテーションによって、僕らの身体が「大文字」に対抗しうるのではないかと考えたわけだ。そうしないと、宮下公園の中に入ることはできないし、自殺の相談を受けても、自殺を止めることができないし、秘密保護法案も原発再稼働も止めることはできない。僕は、このままの流れでこの社会が進んでいくことは看過できない。

結果、5,000円以上の投げ銭を頂いた。まさか、かもめマシーンに、投げ銭が飛んでくるとは……。

なお、萩原の「野良ベストパフォーマンス賞」は、手塚夏子の「うた」でした。何だか、官能的という言葉がぴったりとくるようなパフォーマンスで、終始ぞくぞくしっぱなしだった。